
暑い。
暑い暑い。
朝早くから景気良く大盤振る舞いで照りつけている太陽の下、
俺は玄関先の掃除に励んでいた。
ここまで古ぼけた建物の周りを多少片づけたところで印象が変わるとは
思えないのだが。
暑い。
暑い暑い暑い。
いや、むしろこのままの方が風情があっていんじゃないか?
階段脇の草をむしりながらふと思いつく。
顔を少し上げると汗が流れて頬を伝っていった。
通りがかった老夫婦が見て「まあ、おじいさんあそこをご覧なさいな。
風情のある診療所ですよ」「おうおう、良さそうな所じゃな。
今日はここで血圧を計っていこうかのう」と思わないとも限らない。
そうだそうだ、そうに違いない。
という訳で草むしりはここまでだ。
立ち上がって玄関先を見渡してみる。
うむ。日本庭園の如き絶妙な草の配置。このままの方が美しいだろう。
これは決して手抜きではない。
診療所の繁盛を願ってあえてここで止めておくのだ。
…がすっ。
後頭部にチョップの直撃を受けた。
「それを人は手抜きと呼ぶんだ。ちゃんと仕事をしろ」
いつの間にか後ろに聖が立っていた。
「いや、俺は風情を考えてだな」
「診療所は風情より見た目の清潔感が優先なのでな。草むしりはしっかりしておけ。
終わったら玄関先に打ち水を頼むぞ」
「前はそこまで厳しくなかった気がするんだが」
「今までは見た目にこだわらなくても大丈夫だったが、住み込みアルバイトが一人増えたのでな」
「………」
「私も診療所の外見に気を遣わざるを得ないわけだ」
「………」
「増築や改装もしておきたいのでな。患者の評判を悪くする訳にはいかん」
「増築?今のままでも充分広いだろう」
「いやなに、ひょっとしたら家族がもう一人増える事もあるかもしれんしな」
聖はにっこり笑った。その眼はさっぱり笑っていない。
「心配するな、私が良い名前を考えておいてやろう」
嫌味だ。間違いなく嫌味だ。
「返事は?」
「…塵一つ残さぬよう完璧に掃除してきます」
「うむ、いい返事だ。ではよろしく頼むぞ」
聖はにこやかに微笑みながら診療所の中へ戻っていった。
ドアから一瞬だけ中の冷気が洩れ、俺の顔を撫でる。
炎天下の中で働いていた俺には、そのわずかな風さえ心地よかった。
「早くあの中に戻りたい・・・」
小声で呟きながら草むしりを再開した。
まあ、聖の言うことにも一理はある。診療所があまり雑然としているわけには
いかないだろう。何よりもここはもう俺の家でもあるのだ。
「…俺の家、か」
顔を上げて診療所をしばらくの間眺めてみる。
…それから、俺は黙々と掃除に励みだした。
…しばらく経ってから、中に戻った。
まだ診療開始時間には間に合うはずだ。
あれだけ念入りに掃除しておけば聖も文句は言わないだろう。
汗が冷房で乾いていく感触が気持ちいい。
「さて、あとは診察室の片づけか…」
「いや、今日はそう急がなくてもいいぞ」
ちょうど診察室の扉を開けて出てくる所だった聖が声をかけてきた。
珍しく鞄を手に持っている。書類を束ねたバインダーが少しはみ出していた。
「これから隣町の会合に行ってくる。昼過ぎには戻るから、午前中は休業の札を出しておいてくれ」
「会合?」
「医者同士でのちょっとした話し合いのようなものだな。気は進まんが、
こういうのに出席しておく事も必要なんだ」
「前にさんざん話していた成金院長も来るのか?」
「当然来る。よって、帰ったら君に愚痴を聞いてもらうぞ」
「………」
「では、後はよろしく頼む」
「なあ」
「なんだ?」
「ひょっとして、掃除はもっとゆっくりやっても良かったんじゃないか?」
「君の気持ちがどれだけ真剣なのかを見てみたかったのでな」
「………」
「安心しろ、合格だ」
全部お見通しって訳か…?
複雑な表情の俺を置いて、聖は出かけていった。
佳乃は例によって餌やり当番に学校へ行っているが、もう少ししたら戻って来ることだろう。
…なんとなく気が抜けてしまった俺は掃除が終わった後、
待合室の椅子や灰皿を拭きあげたりしていた。
今まで気づいていなかったが、灰皿に落書きされていたりした。
子供が診察を待つ暇な時間に書いたのだろう。
洗剤をつけてごしごしとこすって汚れを落とす。
掃除を一通り終わらせるともう正午近かった。
聖がいれば物を運んだり片づけを頼まれたりと雑用があったりするのだが
出かけている今は特にすることもない。
椅子に座り込み、ぼーっとしてみる。
尻ポケットからバンダナを出してみた。
あの日、佳乃が腕に巻いたものだ。
動かせなくなった人形は荷物の奥にしまい込み
今ではこのバンダナをいつも持っている。
「これを結ぶとね…」
「この町のことが大好きになっちゃうの」
「それでね、ずっとここにいたくなるの」
「空にいる女の子のことなんて、すぽーんって忘れちゃうの」
「それでね…」
…そして、俺は今ここに居た。
これまで旅を続けていた俺には縁の無かった暮らしだ。
朝早く起き、診療所の雑用をこなしながら
聖の話につきあい、夕方には佳乃とポテトと一緒に散歩に出かける。
毎日違う場所で目覚め、違う場所で眠りにつくような生活を
続けていた俺にはまだ馴染みにくい所もあった。
「同じなのがいいんだよぉ」
佳乃の言葉を思い出す。
そうだな。同じだからこそいいのかもしれない。
今ならそう繰り返していた佳乃の気持ちが分かるような気がした。
…ばたんっ。
玄関から聞き慣れた音が響く。
「ただいま〜」
続いて聞き馴染んだ声が響く。
どうやら飼育当番はもう終わったらしい。
「あれぇ?今日はお休みなの?」
「聖なら隣町に出かけていったぞ。午後には帰るそうだ」
「ふーん、ならいつもと違ってお休みできるね〜」
「ああ。いつもこき使われてるからいい骨休みだ」
「お姉ちゃん、人使い荒いから」
佳乃が笑いながら話すと髪から汗のしずくが落ちる。
夏ももう終わりかけているがまだまだ外は暑かった。
「冷え冷え麦茶、持ってくるね〜」
ぱたぱたと走り、麦茶を入れたコップを2つ持ってくる。
こくっこくっこくっ…
「冷たくておいしいねぇ」
佳乃はあいかわらず元気だ。
「あれ?それ、まだ持っててくれてるんだ」
しまった。バンダナを眺めたあとついソファーの上に置いたままにしていたらしい。
慌てて尻ポケットにしまい込む。
「大事にしてくれてるんだぁ…」
顔を赤らめる佳乃。
なんとなく照れくさくなって俺は横を向いた。
向いた隣に佳乃が座ってくる。
「ひょっとして、あれからずっと持ってたりする?」
「いや、実はこのバンダナは片づけても勝手に戻ってくるんだ」
「こうやって肌身離さず持ってないと夜中に光り出したり
くるくる回って歌い出したり首に巻き付いてきたりでさあ大変って感じなんだ」
「うぬぬ…世の中には不思議なことがあるんだねぇ」
「ああ」
「なにしろ、魔法のかかってるバンダナだからな」
そう言いながら佳乃の頭に手を伸ばして頭を撫でる。
汗で湿った感触が手に伝わってくる。
そのまま引き寄せて、唇を重ねた。
「あっ…」
佳乃の体を抱きしめる。ついさっきまで日差しを浴びていた体は
暖かかった。
背中に回した手に力を入れると、胸が押しつけられる。
柔らかい感触だった。
少し体を離し、制服の布地越しに胸を揉んでみる。
本人は「ちっちゃいから」と言っていたがそんな事もなかった。
「んっ…くふ…」
佳乃の喘ぎ声が待合室に響く。
そのまま、ソファーの上に押し倒…
「わっ。わわわっ。ダメだよぉ」
我に返った佳乃が慌てて体を起こしてきた。
「ここ待合室だしっ。お姉ちゃんももうすぐ帰ってくるんだよぉ」
無視して、もう一度唇を重ねる。
「こんなところでエッチしてたらヘンタイさんだよぉ」
「俺はヘンタイさんなんだ」
「今外から帰ってきたばっかりだしっ。汗かいてるしっ」
「えっと、その、せめてあたしの部屋まで…」
俺の手の中から抜け出して逃げようとする佳乃を後ろから抱き締めた。
「ひーーん、ダメだっていってるのにぃ…」
首筋をそっと舐めてみる。たしかに汗まみれだったが不快感はなかった。
「あはは、くすぐったいよぉ」
あいかわらずムードに欠けるヤツである。
抱きしめながらずりずりと佳乃を引きずってまたソファーに戻った。
「…これじゃまるで、俺が無理矢理襲ってるみたいじゃないか」
「みたいじゃなくてその通りなんだよぉ」
「よしよし、では開き直って堂々と襲うことにしよう」
「わわわわっ」
じたばたしている佳乃を抱え上げてソファーに降ろす。
俺はシャツを脱いでその上に覆い被さっていった。
ふと、下に落としたシャツを見たら「通天閣」の文字が目に入る。
…そういえば、いつものシャツを破いてしまったので今日は借りていたんだった。
なんとなく聖に見られている気がして落ち着かない。
シャツをつかんで部屋の隅に放り投げた。
気を取り直して佳乃の制服の肩紐を掴んで下にずり下げる。
汗で体に張り付いていてなかなかうまくいかなかった。
ようやく下げ終わったあと、上着のボタンを外して開く。
胸の膨らみをふにふにと揉む。先端を口に含んでみる。
汗で濡れているせいか少し塩味がした。
そのまま、全体を舐め回す。
「あっ…んっ…くふ…んっ」
佳乃は顔を真っ赤にしながら唇を手で押さえていた。
まだ声を出すのが恥ずかしいのだろう。
その手を掴んで横にずらし、唇を塞ぐ。
深く重ねながら舌を差し入れ絡め合う。
覆い被さった俺の胸の下で、押しつけられた佳乃の胸が
汗と唾液でぬるぬると滑る。
「…えっと、…服脱いじゃうからちょっと待って…」
佳乃がそう言いながら体を起こそうとする。
俺はもう一度押し倒した。
「はうぅ…制服が皺になっちゃうよぉ」
「このままがいいんだ」
「ひーん、往人くんがエロエロ星人になっちゃったよ〜」
「俺はエロエロ星人なんだ。ちなみに2号や3号の任命は却下するぞ」
スカートの裾をめくり上げて足に手を這わせる。佳乃の肌は暖かかった。
少し体を持ち上げて手をソファーとの間に差し込む。
そのまま、下着を掴んで脱がせていった。
「あっ…んっ…」
佳乃も、もう抵抗する気は無くなったらしい。
腕を俺の背中に回し、しがみついてくる。
抱きあったまま手を下腹部に這わせる。
佳乃の起伏を指でゆっくりと撫で回す。
指を静かに佳乃の中に沈めていった。
熱く締め付けてくる。
「はぁっ…くふ…」
ゆっくりと指を出し入れする。
佳乃の中で指を動かすたびに絡みつくように締め付けてきた。
汗で濡れて佳乃の足に張り付いているスカートを
剥がすようにめくり上げる。
足に手を掛けて、押し開いた。
自分の腰をあてがい、ゆっくりと沈めていく。
「ああっ…」
佳乃が顔を真っ赤にしながらさらに強くしがみついてくる。
ゆっくり…ゆっくり…。
負担をかけないよう静かに動かす。
腰から甘く痺れるような快感が伝わってくる。
いつしか俺は負担のことも忘れ、
激しく佳乃の中に自分を突き込んでいた。
ぎしぎしとソファーが軋む。
「く…あふっ…ああっ…あっ…ああっ…あぁーーーっ!」
佳乃の身体がびくびくと痙攣する。
俺は佳乃の身体の一番奥深くまで突き入れ、射精した。
「…制服、皺になっちゃったな」
「もう皺どころじゃないよぉ」
見ればお互いの汗やらなにやらでかなりの惨状と化していた。
ところどころ縫い目が破けたりしている。
「だから服脱いじゃうからっていったのに〜」
「そんな事言ってたか?」
「言ってたよぉ」
さっぱり記憶にない。
「それは済まなかった。お詫びに綺麗になるまで洗ってやろう」
「ふぇっ?…うわわわわっーーっ!」
俺は佳乃を抱え上げた。そのまま風呂場へ運んでいく。
「わわわっ。恥ずかしいからやめてよぉ」
「こら、暴れるな。これじゃまるで俺が無理矢理服を脱がして
洗おうとしてるみたいじゃないか」
「みたいじゃなくてその通りなんだよぉ」
「よしよし、では開き直って堂々と脱がすことにしよう」
「わわわわっ」
佳乃はじたばたと暴れていたが俺は気にせず運んでいった。
「すまない、少しの間店の中で涼ませてくれないか」
「おや、聖さん。どうしたんだい?」
「隣町の会合から帰ってきたのだが、外はどうも暑くてな」
「診療所に帰れば休めるんじゃないのかい?」
「…ちょっと、中に入るに入れない状況でな…」
聖は小声で呟く。
「まあ、うちで良ければいくらでも涼んでいっておくれ。そうそう、
この前注文していた本が入ってるから、これでも読んでいたらどうだい?」
「ああ。すまない」
聖は壁際の椅子に腰を下ろし、本を開いた。
診療所の方向を一瞬、うらめしそうに見てから読み始める。
外では、すっかり高くなった太陽の日差しが商店街を照らしていた。
…風呂からあがった俺は服を着直して、待合室を
もう一度モップ掛けしていた。
窓を開けて部屋の空気を入れ換えておく。
さっきはすっかり夢中になっていたが、考えてみると
とんでもない所でとんでもない事をしていたものだ。
聖にばれたら解剖されかねない。
いや、解剖よりも改造手術か。
ドリルを手に付けたり加速装置を装備したりぐらいは
平気でやりかねない相手だけに恐ろしい。
「そうだな、君ならサービスしてドリルは両手に付けてあげよう」
「………」
またしてもいつの間にか聖が後ろに立っていた。
「人が居ないと思ってあれこれ言いたい放題言っているようだな」
「は、早かったんだな。会合はもう終わったのか?」
「別に早くはない。もう正午過ぎだ」
「なんだか、汗かいてないか?」
「おかげさまでな」
「………」
聖の背中から危険なオーラが立ち上っているように感じるのは俺の気のせいだろうか?
「まあいい。午後の診察の準備を始めておこう」
「いつも特に準備なんかしてないじゃないか」
「なら、私の愚痴を聞く準備でもしておけ」
…いったい何をどう準備しろというんだ?
「今日は灰皿まで磨き上げられてるな。感心なことだ」
「感心のあまり給料をどーんと上げてやろう、というのならいつでも大歓迎だぞ」
「ついでに言うなら頬に引っ掻き傷ができるまで熱心に
仕事していたとはたいしたものだな、国崎君」
「え?」
反射的に頬に手をやる。たしかに傷が出来ていた。
さっき風呂場で佳乃を隅々まで洗ってやったときに引っ掻かれたらしい。
「………」
「で、給料がどうした?」
「…素晴らしく好待遇な職場に日々感謝しております、ボス」
「当然の答えだな」
結局、午後の間は4人患者が来ただけで
いつも通り聖と茶を飲んでいる一日だった。
『本日の受付は終了しました』
取っ手に札をかけて扉を閉める。聖はもう夕食を作り始めていた。
食欲をくすぐる香りが台所の方から流れてくる。
「往人く〜んっ!海に行こうよ〜〜っ!」
いきなり佳乃が叫びながらやって来た。
「海?」
「うん、海。今年の夏はあまり行かなかったもん。今からみんなで行こうよぉ」
「もう今からじゃ遅いだろ。明日にしたらどうだ?」
「明日じゃお姉ちゃんは来れないよぉ。みんな一緒がいいよ〜」
「…佳乃。俺も凄く海に行きたい気分なんだが一つ問題がある」
「ふぇっ?なに?」
「俺は今腹が減ってるんだ。そして旨そうな夕食が待っている」
「というわけで、却下だ」
「うぬぬ〜」
「私はかまわないぞ。今から出かけるとしよう」
料理を運んできた聖が言う。
「わ〜い。みんなでお出かけだよぉ」
「…せめて夕食を食べてからにしてほしいんだが」
「私の妹の頼みを断るつもりか?」
…頼むから、メスを出すのはやめて下さい。
「という訳で国崎君も快く了承してくれたところで出発だ。佳乃、行くぞ」
今のは脅迫に屈した、と言う方が正しいと思う。
「私たちは先に海に向かっておく。君はスイカを買ってから来てくれ」
聖がそう言いながら財布を投げてよこす。
「商店街のスイカを買い占めてくればいいのか?」
…がすっ。
チョップが飛んできた。
「誰が買い占めろと言った。普通に一個だけ買ってくればいい」
「いや、あんたの日頃の行動パターンから予測したんだが」
「いいから早く行ってこい。早くしないと日が暮れてしまうぞ。」
「うんっ。今を持って、往人くんをスイカ調達部隊1号さんに任命するっ」
ひさしぶりの任命だった。
「ちなみに2号さんはポテトだよ〜」
「ぴこぴこぴこ〜♪」
いつの間にかお馴染みの脳天気な毛玉までやって来ている。
「それじゃあ、お願いだよ〜」
佳乃と聖は並んで海に向かう道を歩き始めた。
二人から伸びる影はもうすっかり長くなっている。
「しかたない。手早くスイカを買ってから行くとするか」
「ぴこ〜」
俺もポテトと並んで歩き始めた。
嬉しそうに足下にまとわりついてくるので歩きにくい…。
ようやく海に着いたときは、空は夕焼けに染まっていた。
「往人く〜ん。こっちだよぉ〜」
佳乃の呼ぶ声がする。声が聞こえた方を見ると
聖と一緒に砂浜に座っていた。
「ほら、スイカだぞ。俺が厳しい鑑定眼で選んできた極上の一品だ」
「本当に極上なのかはみんなで確かめてやろう」
「ぴこぴこ〜」
そういえば、包丁も何も用意してきていない。スイカ割りでもする気だろうか?
「まあ私にまかせろ。こんなものはあっという間に16分割だ」
…どうやって切るのかなんとなくわかったような気がする。
聖の近くにいるのが怖くなった俺は、波打ち際で遊んでいる佳乃の方に歩いていった。
「見て見て〜。すっごく海が綺麗だよぉ」
佳乃の隣に腰を下ろす。たしかに綺麗だった。
沈んでゆく太陽が空と海を赤く染めている。
空が赤い。
どこまでもその色が広がっているようだった。
雲が流れている。
空。
どこまでも続く空だ。
「…ゆ、往人くん?どうしたのぉ?」
佳乃のうろたえた声が聞こえた。
「え…?」
「だって、泣いてるし…。あたし、なにか変なこと言っちゃった?」
…泣いてる?俺が?
頬に手を伸ばしてみる。濡れた感触があった。
…俺、どうして泣いているんだ?
もう一度空を見上げる。
…この空の向こうには、翼を持った少女がいる。
…それは、ずっと昔から。
…そして、今、この時も。
…同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている。
それは母が、幼い俺に語った言葉だ。
…忘れるんじゃなかったのか?
ふらふらと立ち上がり、歩き始めた。空を見上げながら。
「往人くんっ!?」
誰かの声が遠くで聞こえた。海に入って行く。
ズボンが海水を吸って足にまとわりついてくる。
…忘れかけていた。
忘れかけてはいたんだ。
…わかっていた。
わかっていたんだ。
あの場所へはもう行けないのだと。
俺に行く資格はないのだと。
あの雲の流れる場所で
風を受け続けている少女にはもう会えないのだと。
空を見上げながら歩き続ける。
海水が胸までやって来ていた。
…まだ間に合うのかもしれない。
あの遙か高みへのぼっていけるのかもしれない。
このまま歩き続けてさえいれば。
遠くの方で、誰かが騒いでいるような声がした。
気にせずに歩く。
波が頭にかかった。
急に足が沈む。
次の瞬間、俺は海に飲み込まれていた。
…暗い。
周りが暗かった。
身体から力が抜けていく。
なぜか懐かしい感じがする。
周りが…暗…
………。
……。
…俺の手を、誰かが引っ張った。
…目を開ける。
ぼんやりと人影が写る。
いつの間にか俺は砂浜に横たわっていた。
「目は覚めたか?」
人影の一つが聞いてくる。
…聖だった。
急に意識が戻ってくる。
「…ああ」
体を起こす。俺の周りを聖と佳乃とポテトが囲んでいた。
佳乃は口を手で押さえながら、青ざめた顔で俺を見つめている。
「…今のは何だったのか説明してもらおうか」
聖が聞いてくる。
「実は自力で太平洋横断に挑戦したくなったんだ」
「………」
「………」
「…君のさっきの行動は、冗談で誤魔化せるようなものじゃないぞ」
「……呼ばれたんだ」
「呼ばれた?」
「誰かが俺を空から呼んでいたんだ。その声が聞こえたら、悲しくなっ…」
ばちんっ!
話している途中で俺の頬が鳴った。
…佳乃が手を震わせながら睨んでいる。
涙を流していた。
「バカぁ!大バカぁ!約束したのにっ!ずっとここにいるって言ったのにっ!
空にいる女の子のことなんて忘れてよぉっ!
あたしがここにいるのにっ!」
叫びながら俺の胸を何度も叩く。
小さな手で叩き続けながらぼろぼろと涙を流していた。
「あたしがここに…いるんだよぉ…」
俺にしがみついて泣き始めた。
そっと佳乃の背中に手を回す。
身体が小さく震え続けていた。
聖が抱きあっている俺達の側に近づいてきた。
「私の妹を泣かせた罪は重いぞ」
「…ああ、重いな」
「…まだ空の向こうに行こうとしているのなら
この町を出ていってくれ。…妹を不幸にしたくはない」
「…もう行ったりはしない」
「本当か?」
「ああ、本当だ」
俺は空を見上げる。
同じ空のはずなのに、さっきとは違っていた。
…俺はもう空を今までのように見ることは決してないだろう。
なぜだかわからないが確信できた。
…見ることはないだろう。
これからは、ずっと。
…俺達は夕日で染まる道を歩いていた。
背中で佳乃が眠っている。
あの後しばらく俺達は砂浜に居た。
吹く風が冷たくなりはじめた頃、
俺は黙ったまま佳乃を背負って歩き始めた。
俺と聖の影が長く伸びている。
足下にいるポテトもいつもと違う雰囲気なのが
わかるのか鳴き声もあげていない。
「なぁ」
「なんだ?」
「俺を助けてくれたのは、あんたなのか?」
「何の事だ」
「俺を引っ張りあげてくれたんじゃないのか」
「君は自分で戻って来たぞ。」
「…え?」
「一度海に沈んだ時に飛び込んだんだが、君の所までたどり着くまでに
また浮かんできて私達の所に戻ってきた」
「………」
じゃあ、俺の手を引っ張ったのは誰だったんだ?
不思議に思いながら背中に背負っている佳乃から
右手を離し、眺めてみる。
…紐で縛ったような跡があった。
「なぁ」
「なんだ?」
「俺の右手、何か付いてなかったか?」
「佳乃のバンダナの事か?」
「…バンダナ?」
「君が戻ってきた時に手に結んでいたじゃないか。
血が止まりそうなぐらいきつく結ばれていたから
私が外してポケットに戻しておいた。」
「…記憶違いって事はないか?」
「私の頭脳はいつでも明晰だ。そんな事は決してない」
「………」
もう一度、右手を眺める。
「なぁ」
「なんだ?」
「…いや、なんでもない」
話しても仕方ない事だった。
歩きながら、背中に佳乃の重みを感じる。
「魔法が使えたらって、思ったことないかなぁ?」
佳乃の言葉を思い出す。
魔法は、本当にあったのかもしれない。
あるいは、簡単に説明出来る事なのかもしれない。
海の流れは底の方では速かった。
偶然ポケットからバンダナが出て俺の手に絡みつく事もあるのかもしれない。
しかし、あの跡を見た俺には今考えた事はすべて陳腐な説明に思えた。
俺は軽く頭を振ってから、少し笑った。
こいつの魔法になら、喜んでかかってやろうじゃないか。
「なぁ」
「なんだ?」
「今日は悪かったな」
「まったくだ」
「せっかく家族で出かけたのに俺が台無しにしてしまったな」
聖が俺の方を向く。一瞬、足を止めた。
「…そうだぞ」
また歩き始めながら俺の肩に手を掛ける。
「私達は家族だ。出かける時にはみんなで楽しくしてもらわねば困るな」
聖が笑顔を浮かべていた。
さっきまで長く伸びていた影は夕闇の中で
混ざり合ってもう見えなくなっている。
俺達は家への帰路を歩き続ける。
俺にはもう翼は無い。
空を飛ぶことは出来ないから、
地に足をつけて生きていこう。
今、俺の背中で眠っている少女と共に…。
END